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【小説第2話】たぬきからの脱出

 ジェリーのグラスが空になる頃には、窓の外でこうこうと輝く月も、だいぶ低いところまで降りて来ていた。

 明日も早いしそろそろ帰るか、と彼が重い腰を上げかけた、その時。

 カランコロン、と軽快な音をたててドアベルが鳴った。

「――まだやってるかしら?」

 そう言いながらするりと店内に入ってきたのは、鮮やかな青いワンピースを身にまとった美女だ。

 長い黒髪に、赤い唇。そして右目の下の泣きぼくろがなんとも色っぽい。

「ええ。やっておりますよ」

 マスターはそう言って、にこやかに彼女を迎え入れた。

 ジェリーは素早く椅子に掛け直し、ゴホンゴホンとわざとらしい咳ばらいを繰り返す。

『こここここれは……ッ!! もしやチャンス到来か……ッ?! 「貴方、素敵ね」「いや、君こそ」から始まるめくるめく夜がバーニングしてしまうのか……ッ?!』

 井上サトシ33歳、彼女いない歴33年。妄想力だけは日々のたゆまぬ鍛錬により鍛え上げられている。

『おおおおお落ち着け……ッ! 大人の男は余裕が肝心!! ここは何食わぬ風を装って……ッ!!』

 高鳴る鼓動を必死で抑えこもうと、ジェリーは密かに悶絶していた。

 その鼻先をふわりとくすぐる、華やかな女ものの香水の香り。

「――お隣、いいかしら?」

 柔らかく笑んだ美女の唇が、ジェリーの目と、鼻の先にあった。

「もももも勿論だともっ……!」

 激しくどもりながらも、余裕の笑みをきめている(つもりでいる)ジェリーの視線は、彼女の大きく開いた胸元にクギヅケだ。

「ふふ。じゃあ遠慮なく」

 女は、ジェリーの下心を知ってか知らずか、彼の左隣の席に腰掛ける。身体が少しこちらを向いている為、少し身じろぎすると膝同士がぶつかるような近距離だった。

「マティーニを下さる?」

 女はそう言ってマスターに微笑みかける。「はい、ただいま」とマスターはすぐにジンのボトルを手に取った。カランカランという小気味よい音と、小さく抑えられたジャズに満たされた店内。ジェリーの心臓は、もはや爆発寸前である。

「あなた……」

 女はそう言って、ひときわ艶やかな微笑みを浮かべてみせる。

「もしかして、あの『名探偵ジェリー』さん?」

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