【小説第12話】たぬきからの脱出
例えそれが一人の男の人生を変える大事件の起きた夜でも、時間がくれば無慈悲に明けてしまう。
一晩明けて、今日は雲一つない晴天。
窓からは日の出と共に、明るい日差しが差し込んでいる。
「うー……」
瞼の裏側から突き刺すような光に刺激されて、ジェリーはゆっくりと目を開ける。
昨日のことを思い返しながら、「もしかしてタチの悪い夢だったんじゃあ……」なんていう淡い期待を抱いて、恐る恐る自分の顔を触ってみた。
もふ。もふもふ。
かえってくるのは無慈悲な現実。
やはりジェリーは、目覚めてもたぬきのままだった。
あとは、『時間の経過によってたぬき化がとけるかもしれない』という僅かな期待と共にたぬきとして生きていく他ない。
「よぉ。お目覚めか、ジェリー」
そう言ったマスターは、くぁ、と欠伸を噛み殺しながら壁掛け時計を顎でしゃくった。
「そろそろお勤めの時間じゃないのか。――少し早めに行った方がいいだろう。少なくとも、今日は」
確かに、今日の勤務は本人確認と事情説明から始めることになりそうだ。
「あーあ、ろくに寝てないっていうのに……」
ジェリーはぶつくさとそうこぼしながら、寝ている間に乱れたシャツをズボンにしまい直す。シワだらけなのはいつものことだから、勘弁してもらおう。
「ぁー……じゃあ、ちょっくら行ってくるわー……」
おぼつかない足取りで、ショットバー「K」の扉まで歩いていく。
「青いコートの男については、俺なりに調べておく! 何事も最初が肝心だからな。バシッと行ってこいよ!」
マスターの励ましを背中で受けて、ジェリーはふらふらと市役所に向かって歩き出した。
少し広い通りに入ると、辺りは通勤途中の人々で溢れかえっている。
もう少しでスクランブル交差点。ここで信号待ちにひっかかるか否かが、勝負の分かれ目だ。
タイミングを見誤ったが最後、遅刻確定である。
「~~いでっ!!」
必死に人波をかきわけるジェリーの頭を、サラリーマンのカバンが直撃した。
「ちょっ、痛っ!!」
今度はOL風の女性のピンヒールがジェリーの足の甲をぐりぐりとえぐる。
『そういうプレイはまた別の機会にしてぇ!』というジェリーの心の叫びをよそに、彼女はもののついでというようにジェリーを蹴っ飛ばしながら小走りで前へ進んでいった。
「やめっ! ぶっ! ちょっと、押さないで……!!」
蹴られて踏まれて突き飛ばされて。ジェリーは交差点を渡る前から既にズタボロだ。
誰もが一分一秒を惜しむ朝のひととき。ジェリーの情けない声に耳を傾けるものなどここにはいやしない。
通行人と押し合いへしあい、勝負に負けて靴跡だらけになったジェリーの前で、歩行者用の信号は無慈悲に赤色へと変わってしまう。
「そそそ、そんなぁ~~!」
ジェリーの情けない悲鳴が、電子音の「ふじの山」と絶妙なハーモニーを奏でた。