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たぬきからの脱出

もともと人間だったジェリー。しかしある事件をきっかけにたぬきの姿になることに…。

なぜジェリーはたぬきになってしまったのか。そして、なぜ探偵になったのか?

ジェリーの秘密が今明かされる!

作者紹介

徒川ニナ(あだがわにな)

静岡県在住。1987年9月12日生まれ。

小説やエッセイを執筆。「カキヨミ集団・架空派」と「共幻塾」に所属。

「静岡文学マルシェ」(http://shizubun.wp.xdomain.jp/)の実行委員。

第1回ノベラボグランプリ・最優秀作品選出。

平成27年度静岡市民文芸・児童文学部門にて市長賞受賞。

ノベルジム大賞リスペクトライトノベル賞・特別賞受賞作「ハロー・マイ・ロンリー・プラネット」他、電子書籍を二冊ほど刊行。

「音として美しい日本語」を目指して日々精進している。

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もくじ
第1話
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 ウィスキーの品ぞろえが自慢の隠れた名店・ショットバー「K」。

 

 立派なウォールナット材のカウンターにもたれかかっているのは、この店の常連である一人の男だった。

 

「フフッ……。それにしても、人気者ってのは罪なもんだねぇ」

 

 右斜め四十五度を見上げながら、恍惚とした表情で男は呟く。

 

「――そうだな。だが、調子に乗らないほうが身のためだぞ、『井上サン』」

 

 カウンターの内側。男と向かい合わせになるように立った坊主頭のマスターが、穏やかな口調でそれに答えた。

 

「やだなぁ、そんな他人行儀はやめてよ。いつも通り『ジェリー』でいいからさぁ。――あ、そっか! 私が人気者になっちゃったから、遠慮してる? 水臭いなぁ~。私とマスターの仲じゃない」

 

 男は至って上機嫌で、べらべらべらべらよく喋る。

 

 

 

 ベージュのトレンチコートに鹿撃ち帽。

 いかにもな探偵ルックでキザったらしく人差し指を振る彼こそが、井上サトシ――もとい、今をときめく話題の男・ジェリーであった。

 

 

 

 その風貌からお察しの通り、ジェリーは探偵である。

 

 しかし頭に(自称)のつく、いわゆる名乗った者勝ちの、そういうアレだ。

 

「私は極めて有能な、頭のキレる、エルィィィィトだからね!」

 

 そんな彼が先述したように『話題の男』となっているのには、押すに押されぬ理由がある。

 

「『エリート』じゃなくて、『頼りない』の間違いだろ? ジェリーはどうも放っておけないからな。だからこそ、こうやって成功してきたんじゃないか」

 

 そう。これまで依頼された数々の難事件を、ジェリーはもれなく“人の助け”によりまるっとずばっと解決してきたのだ。

 

 しかし、そんな格好悪いことを、この男が公にするわけがない。

 

「私が解決した!」

 

「私のおかげ!」

 

 そんなホラ話があっちに広がり、こっちに広がり、今では非常に有能な探偵であるともてはやされているのだが……実際のところは、皆様もお察しの通りである。

 

 

 

「真にできるオトコってのは、時に母性本能をくすぐりッ、しかしながら、最後はばっちりワイルドな魅力でキメッ! そういうものなの。わかる~? マスタ-」

 

「はいはい。そういうことにしておくよ、ジェリー」

 

 酔っぱらいのたわごとを柔らかい微苦笑と共に聞き流しながら、マスターはてきぱきとグラスを磨き始める。

 

「もぉ~! 何、『そういうことにしておく』ってぇ~」

 

 不服そうに唇を尖らせながらも、ジェリーは上機嫌だ。へらへらと笑ってヒゲの浮いたあごを撫でている。

 

 氷によって少しずつ薄まっていく水割りのおかげで、彼は今日もいい感じに酔っていた。

第2話
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 ジェリーのグラスが空になる頃には、窓の外でこうこうと輝く月も、だいぶ低いところまで降りて来ていた。

 

 明日も早いしそろそろ帰るか、と彼が重い腰を上げかけた、その時。

 

 カランコロン、と軽快な音をたててドアベルが鳴った。

 

「――まだやってるかしら?」

 

 そう言いながらするりと店内に入ってきたのは、鮮やかな青いワンピースを身にまとった美女だ。

 

 長い黒髪に、赤い唇。そして右目の下の泣きぼくろがなんとも色っぽい。

 

「ええ。やっておりますよ」

 

 マスターはそう言って、にこやかに彼女を迎え入れた。

 

 ジェリーは素早く椅子に掛け直し、ゴホンゴホンとわざとらしい咳ばらいを繰り返す。

 

『こここここれは……ッ!! もしやチャンス到来か……ッ?! 「貴方、素敵ね」「いや、君こそ」から始まるめくるめく夜がバーニングしてしまうのか……ッ?!』

 

 井上サトシ33歳、彼女いない歴33年。妄想力だけは日々のたゆまぬ鍛錬により鍛え上げられている。

 

『おおおおお落ち着け……ッ! 大人の男は余裕が肝心!! ここは何食わぬ風を装って……ッ!!』

 

 高鳴る鼓動を必死で抑えこもうと、ジェリーは密かに悶絶していた。

 

 その鼻先をふわりとくすぐる、華やかな女ものの香水の香り。

 

「――お隣、いいかしら?」

 

 柔らかく笑んだ美女の唇が、ジェリーの目と、鼻の先にあった。

 

「もももも勿論だともっ……!」

 

 激しくどもりながらも、余裕の笑みをきめている(つもりでいる)ジェリーの視線は、彼女の大きく開いた胸元にクギヅケだ。

 

「ふふ。じゃあ遠慮なく」

 

 女は、ジェリーの下心を知ってか知らずか、彼の左隣の席に腰掛ける。身体が少しこちらを向いている為、少し身じろぎすると膝同士がぶつかるような近距離だった。

 

「マティーニを下さる?」

 

 女はそう言ってマスターに微笑みかける。

 

 「はい、ただいま」とマスターはすぐにジンのボトルを手に取った。

 カランカランという小気味よい音と、小さく抑えられたジャズに満たされた店内。ジェリーの心臓は、もはや爆発寸前である。

 

「あなた……」

 

 女はそう言って、ひときわ艶やかな微笑みを浮かべてみせる。

 

「もしかして、あの『名探偵ジェリー』さん?」

第3話
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 そうやって身を乗り出されると、露出した胸元がより強調されて、目の保養……改め、大変目の毒である。

 

「いいいいかにもッ! 私が、あの! 名探偵ジェリーだッ!!」

 

 視線をそらしたり戻したりしながら、ジェリーはそう言って得意げに胸を張る。心中では、彼女が自分のことを知っていたという事実に、すっかり有頂天だった。

 

「実は、少し困りごとがあって……助けて下さる?」

 

 女はそう言って、ジェリーに向かって更に身を乗り出してきた。

 

「ほほぅ、困りごととは……ッ?」

 

 毎秒2mmの速さで伸び続ける鼻の下を持て余しながら、ジェリーは彼女に尋ねる。

 

 女は妖艶に微笑むと、勿体つけるようにしてゆっくりと口を開いた。

 

「下着が……」

 

 女がその単語を発した時、ジェリーの興奮は最高潮に達する。鼻血を噴き出すまいと必死でこらえるが、めくるめく妄想は止められなかった。

 

「盗まれてしまったのよ。お気に入りだったのに」

 

 深いブルーで彩られたネイルが、大きく開いた胸元をすっと撫でる。

 

「それはもう仕方が無いと思えるのだけれど……何だか怖くって……」

 

 更には伏し目がちな視線とのコンボを決められて、ジェリーはもうK.O.寸前である。

 

「ならば、私の出番のようだなッッ!!」

 

 ――いや、すでにK.O.されていたようだ。

 

「美しい女性の危機に、黙っているようでは探偵の名がすたるッッ! その事件、私が解決しようッッ!!」

 

 勢い込んで拳を握りながらそう断言するジェリー。見切り発車もいいところであるが、彼女はジェリーの言葉に安堵したように微笑んだ。

 

「本当? すごく嬉しい! ……それじゃあ、この後少しよろしいかしら?」

 

 マスターが差し出したグラスに口をつけてから、彼女はひときわ艶やかな笑みでジェリーに問いかける。

 

「また泥棒がきたらと思ったら、怖くて眠れそうにないの……。ご一緒して下さる?」

 

 飛び出した爆弾発言に、ジェリーの血圧は最高値を更新(2回目)。今にも鼻から全身の血液が噴き出しそうである。

 

「ももももも勿論だともッ!!!!」

 

 もはや余裕がある風を取り繕うことさえできない。ジェリーの頭の中は、既にあんな妄想やこんな妄想であふれかえっていた。

 

「私の名前は花野舞。よろしくね、ジェリーさん」

 

 そう微笑んだ彼女のグラスが空になるのに、さほど時間はかからなかった。

第4話
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 舞と共に訪れた彼女の自室は、「K」からすぐそこにあるアパートの一室だった。

 

 一階のベランダは植え込みで街路から仕切られているが、大の男が力づくで侵入しようと思えば不可能ではないだろう。

 

 「これは……張り込みが必要だなッッ!!」なんてもっともらしいことを言いながら、ジェリーは一晩ここに居座る気満々である。革張りのソファの上にふんぞりかえりながら、鼻息で鼻の穴をふくらめている。

 

「ええ、勿論そのつもりよ。あなたが良ければ、だけど」

 

 舞はそう言いながら、キッチンから二つのカップを持ってきた。コーヒーのよい香りが室内を満たす。

 

『ここここれはアレか……?! 「今夜は寝かせませんよ」とか、そういう……ッッ!!』

 

 ご都合主義もここに極まれり。ジェリーの妄想はもう止まらなかった。

 

 ジェリーは彼女の厚意に応えるべく、そっとカップに右手を伸ばした。しかし、白い持ち手に触れようとした瞬間ハッとする。

 

 砂糖がない。ミルクがない。

 

 恥ずかしながらジェリーはブラックコーヒーが飲めない男だった。しかしそんなこと口が裂けても言えない。何故かって、そんなの簡単。格好悪いからだ。

 

「そそそそれで、問題の下着というのは……ッ」

 

 ジェリーの手元に注がれていた舞の視線が動き、ジェリーのそれとかち合う。

 

「――ふふふ、そんなに気になるの?」

 

 舞はそう言って、ジェリーの隣に腰かけた。指先でジェリーの肘に触れながら、思わせぶりな流し目を一つ。

 

「せっかちはダ・メ。……それよりコーヒーはいかが? せっかく淹れたのに、冷めてしまうわ」

 

 彼女はそう言って、自分の分のカップに口をつけた。これはますます言えない。彼女が飲めるブラックコーヒーを、自分は飲めません、だなんて。

 

「い、いや、しかし……事件の解決には証拠の確認が不可欠であって……!!」

 

 ジェリーはなんとか話題を変えようと必死だ。事件の解決において、状況の把握がどれだけ大切かを切々と語り始める。

 

 舞もはじめは相槌をうちながら真剣に聞いていたが、次第に飽きてしまったようだ。長い髪を弄りながら、不満そうな顔で唇を尖らせている。

 

「――……ねぇ」

 

 業を煮やした舞が身体を傾けて、ジェリーに思い切りもたれかかってきた。

 

「お話より、もっと楽しいこと……しましょ?」

第5話
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 青い爪先がジェリーのひじの辺りをつつ、となぞる。

 

「たたたた、楽しいこと……?」

 

 もはや頭の中はそればかりだというのに、白々しく尋ねるジェリーは勿体をつけているわけではない。ただ単に意気地がないのだ。

 

「――もう。しらばっくれてもだーめ」

 

 舞はそう言って、甘えるようにジェリーに抱きついてきた。柔らかで温かな感触を肌で感じ、ついにジェリーの理性が決壊した。鼻息ではない温かいものが、たり、と鼻から垂れはじめる。

 

「きゃっ!」

 

 いきなり鼻血を噴き出したジェリーに、驚いて身体を離す舞。

 

 そんな二人の間にはらりと一枚、舞い落ちる小さな布きれがあった。

 

 コーラルピンクに、花柄のレース。繊細な刺繍が施されたそれを、ジェリーが見間違うはずもない。ずっと見たい見たいとせがみ続けた女性ものの――おそらくは舞の――下着だ。

 

「ど、どうして?!」

 

 舞は動転した様子で下着を拾い上げ、ジェリーをキッと睨みつける。

 

「もしかして……あなたが犯人なのっ?!」

 

 激しく詰問されて、思わず鼻血も引っ込んだ。

 

「いいいいや、そんなまさか……ッ!!」

 

 青ざめて激しく首を振りながら、身の潔白を主張するジェリー。

 

「じゃあ、どうしてこれがここにあるのよっ?!」

 

 それを言われると、もう太刀打ちできなかった。

 

 しかしながら、こちらに身に覚えがないのも事実である。

 

「そんなこと私に言われても……!!」

 

 結局飛び出したのは、そんな情けない台詞だ。

 

 舞は両眉を吊り上げながら、ソファの上のクッションを力任せにジェリーに向かって投げつける。

 

「出ていって!! さもないと警察を呼ぶわよ!!」

 

「ひぃぃ~~!!」

 

 『警察』という言葉に恐れおののいたジェリーは、一目散に舞の部屋を後にした。

 

「くそぅッッ!! どうして私は、こうもツイていないんだッッ!!」

 

 さようなら、めくるめくピンク色な夜。

 

 こんにちは、いつも通りの冴えない毎日。

 

 へろへろになりながら、ジェリーは逃げ場を探して走り続ける。

 

 そんな彼をあざ笑うかのように、野良犬らしい獣の遠吠えが、アオーンと夜の町に響いた。

 

 

 

「もしもし――こちら花野舞」

 

 アパートの室内。

 

 そこには、さきほどまでとは全く異なる、硬質な声で何者かに電話をかけている舞の姿があった。

 

「作戦コードA失敗。――至急コードBに移行する」

 

 必要最低限のボリュームに抑えられた話し声。

 

 受話器の向こうからは、「ラジャー」と一言だけ、低い男の声が聞こえた。

第6話
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「ふぅ……さんざんだったな……」

 

 静まり返った夜の街。

 

 ぜぇぜぇと肩を上下させながら、ジェリーはようやくショットバー「K」の店先に帰り着いた。

 

「ったく! こうなったら、飲まなきゃやってらんない!!」

 

 明日の仕事は何のその。

 

 遅刻常連窓際公務員であるジェリーに怖いものなどないのである。

 

 そろそろ店じまいを始めるであろうマスターに、愚痴を聞かせながら飲んだくれてやろう。そう心に決めてドアを開けると、意外や意外。カウンターには先客の姿があった。

 

「――なんだ、ジェリーじゃないか」

 

 マスターはそう言って、「お楽しみじゃなかったのか?」とニヒルに笑った。

 

 まるで自分の身に降りかかった惨劇をからかわれたようで、ジェリーはぶすっとしながら『いつもの席』につく。

 

「『お楽しみ』だったら、今ここにいるわけないでしょっ! もう、マスターもひとが悪いんだから……」

 

 口をへの字に曲げながらぶつくさ文句を垂れるジェリーに、先客の紳士が微笑みかけた。

 

「おやおや、何やら大変だったようですな?」

 

 きれいな白髪と、立派にたくわえられた白いひげ。

 

 爽やかなスカイブルーのトレンチコートなんて並のセンスでは着こなせないだろうが、彼の装いはビシッと決まっている。

 

「何があったかなんて野暮なことは聞きませんが、『女心は秋の空』と申しますから、お気になさらないのが吉ですよ」

 

 紳士はそう言って席を立つと、ジェリーのすぐ隣のスツールへ移動してきた。

 

「せっかくですから、一杯おごらせて下さい。お隣、よろしいですかな?」

 

 人の金で飲む酒ほど美味いものはない。そんなジェリーの気性をわかってのことだろう。注文をする前にマスターが、ジェリーのお気に入りであるグレンリベットを差し出してきた。しかもロック。気持ちよく酔いたい夜にはうってつけだ。

 

「くそぉぉ~~!! 今夜は朝まで飲むぞぉぉ~~~!!!」

 

 力いっぱい雄たけびをあげると、ジェリーはグラスの中の酒を一気に飲み干す。

 

「おや、いい飲みっぷりで」

 

「おいおい、大丈夫か?」

 

 外野の声になど聞く耳ももたず、ジェリーは酒をあおり続ける。

 

 こうなったらもう、飲んだくれは止まらない。

 

 ジェリー達の夜は、それから小一時間ほどして空がうっすらと白み始めるまで続いたのだった。

第7話
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「う~~、ヒィック」

 

 間の抜けたしゃっくりを繰り返すジェリーの目は、完全にすわっていた。

 

「どぉぉ~~~してわたしがっっ!下着ドロボウあつかいされなきゃならないのぉ~~~っ!?」

 

 本日何度目かの問いを、ほとんど叫ぶような口調で投げつける。

 

「そりゃあ……お前が、その、何かよからぬことをやらかしたんじゃないか?」

 

 そんなことを言われたって、事情を知らないマスターは適当にはぐらかすしかない。

 

「もぉぉぉぉ!!! なんでそんなこというわけぇぇっ?! マスターのあほ~~っ! はげ~~っ!!」

 

 そして本日何度目かになる泣き言と共に、ジェリーはみっともなくぐしぐしと泣きじゃくり始めた。

 

「ったく……。ジェリー、いい加減にしろよ。そんなんじゃあ仕事に差し障るぞ」

 

 マスターはすっかり呆れ顔で、「明日も仕事だろう」とジェリーをたしなめる。

 

「うるは~~い! わたしはいまっ! のまねばやってられんのだぁ~~!!」

 

 ろれつのまわらない状態で、どうやって仕事をこなすというのだろう。

 

「ほっほっほ。飲みっぷりのいいひとは好きですよ」

 

 紳士はそう言いながら、自分の前にあるグラスをくいっと傾ける。

 

 ことあるごとに先客であった彼がそう言ってもちあげてくれるので、今日のジェリーは大変気持ちよーく酔っぱらうことができた。

 

「あんまり甘やかさないでやって下さい。こいつ、放っておくとつけあがりますから」

 

「いやいや、私は本当のことを言っているまでですよ」

 

 困ったように言うマスターを飄々といなしながら、紳士は指先で豊かなあごヒゲを撫でる。

 

 彼もジェリーに付き合って相当な量の酒を飲んでいるはずだが、顔色一つ変わっていない。おそらくはかなりの酒豪だろう。

 

「とはいえ、ジェリーさんをここまで酔わせてしまったのは私の責任でもありますから」

 

 紳士はそう言って、カバンから一本の小瓶を取り出した。

第8話
Anchor 8

「んぁ~~~? 何ですかな、それはぁー?」

 

 酔いのせいで既に目の焦点が合っていないジェリーが、興味深げに身を乗り出した。

 

 茶色い瓶に、青いラベル。サイズからしても、オロ○ミンCとかリポ○タンDとか、そういったものを想像させる。

 

「私が見つけた、その日の酔いを次の日に残さない『とっておき』ですよ」

 

 紳士はそう言って意味深に笑った。もはや『その日』でも『次の日』でもないことなど気にならないくらい、とんでもない秘密を隠していそうなとっておきの笑みだ。

 

「味には少々難ありですが、効果はてきめん。これもせっかくのご縁ですから、一本差し上げますよ」

 

「うぉお~~! いいんですかなっ?!」

 

 紳士がそう言って差し出した小瓶に、ジェリーは一も二もなく飛びついた。

 

 苦かろうがしょっぱかろうが、背に腹はかえられない。

 

 ジェリーも実際心の奥底では、飲み過ぎたことを自覚しているのだ。

 

 そういえば上司の望月にもどやされたばかりだったし、これ以上問題ごとの種を増やしたくはない。

 

「そのドリンクは初めて見ますな。そんなに効くんですか?」

 

 マスターが興味深げにジェリーの手の中にある小瓶を眺める。

 

「ええ、そりゃあもう……」

 

 そう言って紳士は、喉の奥でくつくつと笑った。

 

「そんじゃあ、いっただっきまぁ~~す!!!」

 

 プシュッと小気味のよい音をたてて、ジェリーが瓶のフタを開ける。

 

 天井をあおいで喉を鳴らしながら、一気に飲み干した。

 

「ウゲ~~っ!!」

 

 確かにマズイ。とんでもなくマズイ。

 

 消しゴムをコーヒーにつけこんで一時間くらいこんがり焼き上げたような味だ。

 

 しかし、こう、何だか身体の奥底が熱くなってくるような。

 

 お腹の奥の奥の方から、何やら得体の知れないパワーが湧き上がってくるような。

 

「――れれれ~……?」

 

 そのうちに、ジェリーの視界はくるくると盛大に回転し始めた。

 

「まぁ~わぁ~るぅ~……」

 

 やがてゆっくりと世界は傾き、陽炎のようにゆらゆらとゆらめきながらホワイトアウトする。

 

「おいっ!! ジェリー! ジェリー!!」

 

 マスターの取り乱したような呼び声を遠くに聞きながら、ジェリーはゆっくりと意識を手放した。

 

「しっかりしろ! ジェリー! ――ジェリーーーッ!!!」

 

 ガタガタという物音、マスターの雄たけび。

 

 それにまぎれてごくごく小さく、ほっほっほという何者かの、愉悦を含んだ笑い声が聞こえた気がした。

第9話
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「うー……」

 

 うめくようにあげた声が、こころなしかいつもより少し高い気がした。

 

 重い瞼を無理矢理持ち上げると、かすんだ視界が徐々にクリアになっていく。

 

 背景は、なじみのショットバー「K」。

 

 心配そうにこちらを覗き込んでいるのは坊主頭のマスターだ。

 

「——んぬぅー……?」

 

 いつもつっけんどんな彼が、こんな顔をしているなんて珍しい。

 

 そもそも今、何がどうしてこんな状況になっているのだったか。

 

 うぬぅ、と眉間に皺を寄せていると、それに気付いたマスターが常ならぬ大声をあげる。

 

「ジェリー!! 気が付いたか!!」

 

 彼はそう言って、ごつごつとした手でジェリーの肩を揺さぶった。

 

「うわわわ……あんま揺らさないで……何か出てきそう……っ!」

 

 力無い声でそう言うと、マスターは慌ててジェリーから手を離す。

 

「ったく、心配かけやがって……」

 

 マスターはそう言って額の汗をぬぐうが、ジェリーには、どうして自分が心配されているのか、どうして彼がそんなに取り乱しているのか、事情がさっぱりわからない。

 

 だがこころなしか、マスターの身体がいつもより大きく見える、ような……?

 

「あー……それで……。その……何ともないのか?」

 

「?」

 

 ジェリーは、歯の奥にものがつまったようなマスターの物言いに首を傾げた。

 

「何ともってことはないよ……。やっぱりちょっと飲みすぎたかな。頭が痛くて……」

 

 そう言ってこめかめに手をやった瞬間、違和感に気付く。

 

 まず、手がおかしい。

 

 指が自由に動く感覚が無いし、どれだけ力いっぱい伸ばしても思ったところに届かない感じがする。

 

 そしてこめかみを触った瞬間の、ファサッとした毛の感触。

 

 髪でもなければヒゲでもないその感覚は、そう……まるでコートのフードに付いている、天然もののファーのようだ。

 

「???」

 

 頭の中を疑問符でいっぱいにしながら、改めて自分の右手をまじまじと見つめる。

 

 ——そこにあったのは、毛むくじゃらでやたらと丸っこい、元の姿とはかけ離れた、ふわふわもふもふの獣の手だった。

第10話
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「ええぇぇぇぇぇぇぇぇっ?!」

 

 ジェリーは大声をあげてわなわなと震えだす。

 

「ここっここっこ、これは……?!」

 

 縋るようなまなざしでマスターを見上げると、彼は居た堪れないような表情をして、小さな鏡を差し出した。

 

「——とにかく、自分の目で確認するといい」

 

 その重々しい口調が、ことの重大さを物語っている。

 

 ジェリーは恐る恐る、自分の顔の前に差し出された鏡を覗き込んだ。

 

 

 

 ——丸々とした顔。薄茶色の毛。両目の周りをぐるっと囲んだ、こげ茶色のふちどり。

 

 ——それは、たぬきだった。どこからどう見ても、たぬき以外のなにものでもなかった。

 

 

 

「うえぇぇぇぇぇぇぇぇぇっ?!」

 

 ジェリーは再び大声をあげながら、自分の顔をあちこち触って事実を確認する。

 

 さらさら。もふもふ。ぷにぷに。ふわふわ。

 

 感触を確かめつつ、ついでにほっぺたを思い切りつねってみたりしたが、現実は変わらない。ほっぺただって痛い。

 

「どどどどうしてっ、私がっ、たたたたぬきに……っ?!」

 

 動揺のあまり小刻みに震えるジェリーに、マスターは沈痛な面持ちで尋ねた。

 

「お前さん、さっきまで自分が何してたか覚えてるか?」

 

 咄嗟のことで即答できなかった。

 

 どうやら目覚めるまでの記憶が少しあいまいになっているようだ。

 

「えーっと……たらふく飲んで、よっぱらって、それで……えっと、栄養ドリンク……?」

 

 そこまで言って、ジェリーは一緒に酒を飲んでいた親切な紳士が忽然と姿を消していることに気付いた。

 

「あれ? あのオジサンはどこにいっちゃったわけ?」

 

 ジェリーの不安げな視線を受けて、マスターは苦々しげな表情のまま続ける。

 

「悪い……。あのドリンクを飲んで、ジェリーがいきなり倒れたことに動転しちまってな……。気付いたらいなくなってた」

 

「ええっ?!」

 

 どさくさにまぎれて帰宅してしまったのだろうか。人一人倒れているのに?

 

 いや、そんなことをするような人間にはとても見えなかった。彼は非常に親切で……。

 

「——やられたな」

 

 マスターはそう言って鋭く舌打ちをした。

第11話
Anchor 11

「恐らく、謀られたんだろう。まさか、人をたぬきにする方法があるなんて、にわかには信じがたいがな」

 

「そんなぁ……」

 

 ジェリーは呆然としながら、怒涛のようだった今日一日の出来事を反芻した。

 

 

 

 青いワンピースを着た美女、花野舞には下着泥棒と間違われ。

 青いトレンチコートを着た紳士には、得体の知れないものを飲まされ、挙句たぬきになってしまうなんて!

 

 

 

「わたしは青が嫌いになりそうだよ……」

 

 ジェリーはそう言いながら、すっかり肩を落としてしょぼくれていた。

 

 マスターはつるつるの頭をかきながら、店内にある小さなソファを顎で示す。

 

「——今日は事情が事情だ。そこを使って構わないから、少し寝て行け。一時間か二時間なら休めるはずだ。あんなことがあった後だが、今日もお前さんは仕事だろう」

 

 いつも、皮肉を言うか茶化すかしかしないマスターがこんなに優しいということに、事態の重大さを感じずにはいられない。

 

「うぅぅ……」

 

 ジェリーはのろのろと立ち上がり、提供されたソファの上に倒れ込んだ。

 

「——こんなんで……これからどうしろっていうんだぁ……」

 

 泣き言の語尾にはすでに寝息が混じっている。

 

 すっかりコンパクトになってしまった肩をすぅすぅと上下させながら、ジェリーは眠る。

 

「——困ったことになっちまったな……」

 

 残されたマスターはそう言って、再び自慢のスキンヘッドをガリガリと掻いた。

 

 

 

「作戦コードB成功。ターゲットはたぬき化した」

 

 朝方の薄もやの中で、小さく響く男の声。

 

 何回かの短い相槌の後、話し声はいったん途切れる。

 

「——これで、『名探偵ジェリー』も形無しですな……。ほっほっほっ」

 

 可笑しくてたまらないといった風に笑った男は、青いコートをひるがえして目覚め始めた街のどこかへと消えていった。

第12話
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 例えそれが一人の男の人生を変える大事件の起きた夜でも、時間がくれば無慈悲に明けてしまう。

 

 一晩明けて、今日は雲一つない晴天。

 

 窓からは日の出と共に、明るい日差しが差し込んでいる。

 

「うー……」

 

 瞼の裏側から突き刺すような光に刺激されて、ジェリーはゆっくりと目を開ける。

 

 昨日のことを思い返しながら、「もしかしてタチの悪い夢だったんじゃあ……」なんていう淡い期待を抱いて、恐る恐る自分の顔を触ってみた。

 

 もふ。もふもふ。

 

 かえってくるのは無慈悲な現実。

 

 やはりジェリーは、目覚めてもたぬきのままだった。

 

 あとは、『時間の経過によってたぬき化がとけるかもしれない』という僅かな期待と共にたぬきとして生きていく他ない。

 

「よぉ。お目覚めか、ジェリー」

 

 そう言ったマスターは、くぁ、と欠伸を噛み殺しながら壁掛け時計を顎でしゃくった。

 

「そろそろお勤めの時間じゃないのか。――少し早めに行った方がいいだろう。少なくとも、今日は」

 

 確かに、今日の勤務は本人確認と事情説明から始めることになりそうだ。

 

「あーあ、ろくに寝てないっていうのに……」

 

 ジェリーはぶつくさとそうこぼしながら、寝ている間に乱れたシャツをズボンにしまい直す。シワだらけなのはいつものことだから、勘弁してもらおう。

 

「ぁー……じゃあ、ちょっくら行ってくるわー……」

 

 おぼつかない足取りで、ショットバー「K」の扉まで歩いていく。

 

「青いコートの男については、俺なりに調べておく! 何事も最初が肝心だからな。バシッと行ってこいよ!」

 

 マスターの励ましを背中で受けて、ジェリーはふらふらと市役所に向かって歩き出した。

 

 

 

 少し広い通りに入ると、辺りは通勤途中の人々で溢れかえっている。

 

 もう少しでスクランブル交差点。ここで信号待ちにひっかかるか否かが、勝負の分かれ目だ。

 

 タイミングを見誤ったが最後、遅刻確定である。

 

「~~いでっ!!」

 

 必死に人波をかきわけるジェリーの頭を、サラリーマンのカバンが直撃した。

 

「ちょっ、痛っ!!」

 

 今度はOL風の女性のピンヒールがジェリーの足の甲をぐりぐりとえぐる。

 

 『そういうプレイはまた別の機会にしてぇ!』というジェリーの心の叫びをよそに、彼女はもののついでというようにジェリーを蹴っ飛ばしながら小走りで前へ進んでいった。

 

「やめっ! ぶっ! ちょっと、押さないで……!!」

 

 蹴られて踏まれて突き飛ばされて。ジェリーは交差点を渡る前から既にズタボロだ。

 

 誰もが一分一秒を惜しむ朝のひととき。ジェリーの情けない声に耳を傾けるものなどここにはいやしない。

 

 通行人と押し合いへしあい、勝負に負けて靴跡だらけになったジェリーの前で、歩行者用の信号は無慈悲に赤色へと変わってしまう。

 

「そそそ、そんなぁ~~!」

 

 ジェリーの情けない悲鳴が、電子音の「ふじの山」と絶妙なハーモニーを奏でた。

第13話
Anchor 13

「さ、散々だった……」

 

 押されて揉まれて踏みつぶされて、靴跡だらけのジェリーが勤務先である市役所に辿り着いたのは、業務開始時刻から三十分ほど後のことだった。

 

「あーー……また望月課長にどやされる……」

 ただでさえ万年窓際族として肩身が狭いのに、今月に入ってもう三度目の遅刻だし。しかも見た目はたぬきだし。

 

 はあぁ〜〜、と重い溜息をつきながら建物の中に入る。するすると階段を上がって自分のフロアに辿り着くと、肩を縮こまらせながらデスクに向かった。

 

「——おはようございま〜す……」

 

 一瞬同僚の視線が持ち上がって、こちらの姿をとらえた後に数秒で離れる。

 

 ジェリーのたぬき化について突っ込みを入れる者はいない。

 

 無関心というこの世で一番悲しい仕打ちに耐えながらデスクのパソコンを立ち上げるジェリーの背中に向かって、ためらいがちにかけられる声があった。

 

「——井上君……?」

 

 望月課長が自慢の丸眼鏡をくいっと持ち上げながら、そう尋ねる。

 

 ビクッと大きく肩を震わせながら、ジェリーは恐る恐る課長の方を振り返った。

 

 いぶかしがるような瞳が、眼鏡ごしにじっとこちらを見ている。

 

「かかか課長! 実はワタクシ、史上最悪の大事件に巻き込まれてこのような情けない姿に……ッ!」

 

 とにもかくにも説明だ。

 

 たぬき化した事情を、できれば遅刻の理由に関連付けて話して同情を誘うのだ。そうすれば、さすがの望月課長も遅刻のひとつやふたつ、許してくれるだろう。

 

「や、そういうのいいから」

 

 しかし、課長は無慈悲な一言でジェリーの言い訳を遮ると、ワイシャツの胸ポケットから取り出した手帳をぺらぺらとめくった。

 

「んーと、どこだったかなー」

 

 首をひねりながらページをめくる課長は、何かを探しているようだ。

 

「——あ、あった」

 

 不意にそう言って、人差し指で、ぴん、とそのページをはじく。

 

「井上君。きみ、今日でクビね」

 

 手元の紙面に視線をやりながら、まるで「今日の夕飯、サバの塩焼きね」と言う時のようなあっさり具合で、望月課長は言った。

第14話
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「はいはい。充分に存じております。私は今日でクビ……って、えーーーーッッ?!」

 

 意図せず華麗なノリ突っ込みを披露することになったジェリーは、望月課長のデスクの前に駆け付け、足りない身長でぴょんこぴょんこしながら今にも掴みかからんばかりの勢いで抗議する。

 

「どどどどど、どうしてですかッ?! そりゃあ確かに人より少―しばかり遅刻は多いかもしれませんがッッ!!!」

 

 机から身を乗り出して、じたばたともがいているジェリーを見下ろしながら、課長は再び丸眼鏡をくいっと持ち上げる。

 

「いや、遅刻が多いからとか、勤務態度が悪いからとか、そういう理由だったらとっくの昔にクビにしてるから」

 

 望月課長のなんでもない風の言葉に、ジェリーは愕然とする。それだったら、何故、どうして自分がクビなんだ?!

 

「いやー、たぬきはいかんよねー。せめてキツネだったらよかったんだけどねー」

 

 課長はそう言って、先程取り出した手帳の一ページを示す。

 

 近くでよくよく見れば、それは市役所での勤務開始時に配られた、就業規則をまとめたものだった。

 

「『第二十四条。いついかなる事情をもってしても、たぬきの就業は禁ずる』ほら、ここに書いてあるでしょ」

 

 そう言って課長は椅子から立ち上がると、しゃがみこんでジェリーにも見えるようにしながら、手帳のある部分を指さした。

 

 ――なるほど。そこには確かに、たぬきの就業を禁ずる文言が記されている。

 

「どどど、どうしてたぬきだけ……ッッ?!」

 

 わなわなと震えるジェリーに、望月課長は淡々と言い放つ。

 

「知らないの? その昔、駿河の有名な大名がたぬき鍋にあたって命を落とし……」

 

「私のことは食わんでしょうがッッ!!」

 

 言葉尻にかぶせる勢いでそう抗議しても、就業規則は揺るがない。

 

「――ともかく。君は今日でクビだから。まぁ頑張って次を探しなさい。きっといい人生……いや、たぬき生が……」

 

「もういいですっっ!!」

 

 課長の言葉を最後まで聞き届けることのないまま、ジェリーは脱兎のごとく駆け出した。

 

 こみあげる涙をこらえて市役所を後にし、陽気な若者であふれる街の中へと逃げ込んでいく。

 

 

 

 情けなく歪んだ顔は不細工である自覚があった。まるですれ違う人すべてが自分を笑っているようだった。

 

『なに、あれ』

『たぬきだよ』

『なんでたぬきがこんなところに』

 

 そこかしこでそんな声が聞こえる気がして頭を抱える。

 

 ふらふらと歩道からはみだして歩くジェリーを迷惑そうに避けながら、通りすがりの乗用車がパッパーと騒々しくクラクションを鳴らした。

第15話
Anchor 15

 クビになったからといってそのまま家に帰る気にもなれず、ジェリーはふらふらと街をさまよっていた。

 

 あれから何時間経っただろうか。朝食も昼食もとっていないから、腹がぐうぐうと盛大に鳴っている。太陽は既に沈み始め、時刻はおそらく夕刻に近いだろう。

 

 まるで死人のような形相で歩くジェリーと、それを遠巻きに見ながら眉間に皺を寄せる街の人々。

 

 むなしい。所詮、自分の人生——いや、たぬき生なんてこんなものなのかと、ジェリーは途方に暮れていた。

 

 

 

 よりどころを求めたジェリーの足は、いつの間にか両替町に向かっている。

 

 辿り着いたのはいつものあの店、ショットバー「K」。

 

 思い返せば今も昔も、ジェリーにとって唯一の『心安らぐ場所』はここだった。

 

 ——まだ少し営業開始までは間があるが、駄々をこねて少しおいてもらおう。

 

 そう考えたジェリーは、カランコロンとドアベルを鳴らして店内に足を踏み入れた。

 

「おお! ジェリー! ちょうどいいところに!」

 

 予想に反して、マスターはジェリーのことを満面の笑みで迎え入れる。

 

「とにかく、早くこっちにこい!」

 

 手招きされるままに歩み寄るが、ジェリーにはマスターのテンションがどうしてそんなに高いのか、見当がつかない。

 

 訝しげな表情のまま『いつもの席』に腰かけたジェリーは、マスターを見上げて皮肉気に笑った。

 

「なに? ——もしかして、人間に戻る方法が見つかったワケ?」

 

 まさかそんなはずがない、という語調で尋ねる。

 

 しかし、マスターは「よくぞ聞いてくれました」とばかりに得意げな笑みを浮かべていた。

 

 すっかりいじけてヤケになっていたジェリーの心が、少しずつざわざわと騒ぎだす。

 

「あいにく方法はまだ見つかっちゃあいないが……限りなくそれに近付いた、と言ってもいい」

 

 自信満々にマスターが放った予想外の言葉に、思わず目を見開いた、その時。

 

「——君が噂のジェリーか」

 

 聞き覚えの無い低い声が、そうやってジェリーの名を呼んだ。

 

 マスターと自分しかいないと思っていた店内。

 

 不意に響いた『誰か』の声に、ジェリーは肩を震わせ辺りを見回す。

 

「だだだ、誰っ?!」

 

 ビクビクするジェリーを笑いながら、マスターがジェリーの席のすぐ隣のスツールを顎で示した。

 

「失敬、申し遅れたな」

 

 なんともジェントルメンな言葉と共にこちらを見上げているのは——トカゲに似ているが、そうではない。彼はおそらく——。

第16話
Anchor 16

「おれはカメレオンのメロン。よろしく頼むぜ」

 

 そう言ってぎょろぎょろと目玉を回転させながら、メロンは器用にパイプをくわえなおした。

 

 タキシードと蝶ネクタイを身にまとったその姿は、カメレオンのくせに(なんて言ったらこの世の全カメレオンを敵にまわしそうだが)非常にダンディで、かっこよくきまっている。

 

「——よろしく、って、一体何が?」

 

 カッコイイ奴は昔からいけ好かない。

 不機嫌そうに半目になりながら、ジェリーは目の前のメロンを疑うようにねめつける。

 

「ジェリー。おれと組んで探偵をやらないか?」

 

 メロンはそう言いながら、たっぷりと吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。

「探偵……?」

 

 この名探偵ジェリーに『探偵をやらないか』なんて、喧嘩を売っているのだろうか。

 

 更に機嫌を悪くしたジェリーに対して、マスターがなだめるように付け加える。

 

「メロンはIQ150の切れ者だ。きっと瞬く間に事件を解決してくれるぞ」

 

 ダンディなうえに、IQ150とくるか。ますます気に食わない。

 

「そんで、その天才サンがどうして私と組もうって?」

 

 ジェリーの皮肉げな物言いなど意に介さず、メロンは淡々と告げた。

 

「君は探偵をしながら人間に戻る方法を探すんだ。おれはその手伝いをする」

 

 思ってもみなかった提案に、ジェリーは目を見開く。

 

「……どうしてあんたがそんなこと……」

 

 彼の話が事実だとすれば、願っても無い申し出だ。

 

 「いや、しかし……」ともごもご口ごもるジェリーの肩に飛び乗ると、メロンはどうやらにやりと笑ったようだった。

 

「心配するな。おれはなかなか使える男だぜ」

 

 自分で言うなよ、と思わずツッコミをいれたくなるが、これがハッタリでもなんでもなく事実なのだとしたら、心強いのは確かだろう。

 

「——そういうわけで、よろしくな。相棒」

 

 耳に心地よい低音ボイスに続いて、耳の横からはすぅすぅという寝息が聞こえてきた。どうやらメロンは、よりにもよってジェリーの肩で眠ってしまったようだ。

 

「えぇっ?! ちょっと!! 勝手に寝ないでよぉ!!」

 情けない声をあげるジェリーに、マスターが笑いかける。

 

「いいじゃねぇか。メロンの助けがあれば、お前はこれからも『名探偵ジェリー』としてやっていける」

 

「……」

 

 職を失い、何をどうしたらいいのかさっぱりわからないジェリーにとって、確かにメロンの申し出は渡りに船のように思えた。

 

「名探偵、ジェリー……」

 

 ジェリーは口の中でゆっくりと、その言葉を反芻する。

 

「——まぁ、やってみますか……」

 

 どのみち、このままではにっちもさっちもいかないのは確かだ。

 

 ジェリーは肩の上で眠るメロンを横目で見やると、こっそりと心の中で、『よろしく頼むぜ、相棒』と呟いた。

 

 

 

 沈みゆく西日によってオレンジ色に染め上げられたショットバー「K」の店内。

 

 この日、この時、この場所で、文字通りの名(迷?)探偵凸凹コンビが誕生した。

 

 彼らは一体これからどのような活躍を見せるのか?

 

 それはまた、別の機会にお話するとしよう。

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