ブラック企業からの脱出【プロローグ】

February 1, 2016

ブラック企業からの脱出

【プロローグ】

 

 

 

 

 水滴が窓ガラスを縦断する様をジェリーはぼんやりと眺めていた。空にはきれいな月が昇り、雨上がりのアスファルトを黄金色に照らしている。街に人の気配はない。ときどき大型トラックが猛スピードで駆けていく。風はまだ冷たいが、道沿いの花壇では野放図に伸びたジンチョウゲが花をつけはじめ、夜の闇にたおやかな香りを漂わせていた。 

 時刻は午前3時を回ったところ。たぬき探偵ジェリーはとある会社のオフィスにいた。 

 部屋の灯りは省エネの名の下に落とされ、唯一の光源であるパソコンのディスプレイが、無精髭にまみれ、目の下にくまを蓄えたジェリーの顔を青白く浮かび上がらせている。風呂はもう何日も入っていない。身だしなみを気にする余裕などないのだ。といっても、誰に会う用事もなかった。

 デスクには崩れそうなほど積まれた書類の山、山、山。ため息も枯れ果てた。砂漠を彷徨っている気分だ。ときおり強烈な感情がふわりと浮き上がるが、蜃気楼のようにたちどころに消え失せる。今のジェリーは与えられた仕事を忠実にこなすだけの機械同然である。思考力はとっくに失われ、指示されたとおりにキーを叩く、叩く、叩く。 

 もうどれだけ同じ作業を続けているか。日付の感覚はないが、金曜日にカレーを食べたことを考えればおそらく水曜日あたりではないだろうか。 

「次の休みにはブルーライトをカットしてくれる眼鏡を買おう」 

 霞んだ目を擦りながらジェリーが虚しく独りごちると、二つ隣の席で書類に目を通していた社員が消え入りそうな声を出す。 

「おれ・・・・・・この仕事終わったら・・・・・・結婚するんだ」 

 言い終わると、暗闇に溶けて、静かになった。ジェリーは心の中で念仏を唱える。 

 部屋のあちこちでは、生気のない男たちが栄養ドリンクの空き瓶とともに転がっている。並べた椅子の上で仮眠を取っている者もいれば、シュレッダーのゴミ袋でベッドを自作する知恵者もいた。皆、入社してから三年足らずの新人社員ばかりであり、上司から言いつけられた仕事が片付かず帰宅を断念していた。 

 すでに残業時間は正規の労働時間を大きく上回っている。この会社にタイムカードや労働基準法といった概念は〈当然〉ないため、思う存分プライベートをすり減らすことができるのだ。また、休日出社は「自ら進んで出社している」だけであり、〈当然〉に手当は出ない。この〈当然〉という言葉は、書面に明記されるまでもなく窒素や酸素のように空気中に漂い、呼吸の数だけ体に入り込んで心を芯から蝕んでいく。新人は〈当然〉残業するものであり、〈当然〉給料は安く、〈当然〉休みはない。わかっているのだ、「次の休み」も「仕事の終わり」も白馬の王子様の如く儚い妄想なのだと。

 ジェリーは「ぶるーらいとごーごー、ぶるーらいとごーごー」と、意味不明なつぶやきを繰り返しながら、機能しない頭であの日を思い出していた。 

 

 なぜ私立探偵であるジェリーがオフィスビルで働いているかと言えば、探偵事務所にかかってきた一本の電話に端を発する。 

 ジェリーは困っていた。帳簿を見てはため息をつき、何度も電卓を叩いて、苦しそうに唸っている。 金がないのだ。

 見栄を張って一等地に事務所を借りたはいいものの、このところめっきり仕事が減り、くわえて、破れたコートを新調したり、アイドルを追いかけたりして、蓄えが底をつきそうになっていた。静岡の町が平和でなによりだが、探偵が探偵であるためには事件を解決し続けなければいけない。 

 事件よ起きろ、と正義の人らしからぬことを考える。 

「自分で起こしたらどうだ?」 

 天才カメレオンにして探偵ジェリーの良き相棒、メロンが脳内を読んだかのように言う。メロンは珍しく朝から目覚めており、事務所の電話機に腰を掛けパイプをくゆらせていた。 

「おい、メロン・・・・・・」細い煙が天上に昇っていくのを少しの間目で追った後、ジェリーは右の口角だけ上げていやらしく笑う。「いいアイディアだな。自分で起こした事件なら解決しやすいもんな」 

「真に受けるな、馬鹿者」 

 メロンは輪になった煙をはき出した。ジェリーがおもしろがって指を入れる。 

「完全な推理ができないお前に完全な犯罪が行えるわけないだろう。ミステリーの犯罪者は切れ者にしか演じられんぞ」 

「おいおい、完全犯罪だったら探偵が解決できないだろ」 

 メロンはぐるぐると目玉を回してお手上げのポーズをした。 

 そのとき事務所の電話が貧弱な鳴き声を上げた。メロンはのろのろと立ち上がり、電車で席を譲るようなポーズをして受話器を指す。ジェリーは支払いの催促を警戒しつつ、8コール目にやっと受話器を取った。不幸は遅かれ早かれ戸を叩くのである。 

「お忙しいところぉ、申し訳ございません、わたくしぃ、ホワイトロック商事のぉ、サクライと申しますぅ。サクラノハナの〈桜〉にぃ、イドの〈井〉と書いてぇ桜井でございますぅ」 

 電話の相手は妙齢の女性らしかった。美しい抑揚の言葉遣いをしてるが、ビジネスライクな笑顔が透けて見えるようだった。

「こちらぁ、ジェリー様の探偵事務所でぇ、お間違いございませんかぁ?」 

「え、あ、はい」 

「ジェリー様ご本人様でございますねぇ、いつもぉ、大変お世話になっておりますぅ、今ぁ、少しお時間よろしいでしょうかぁ?」

 セールスだと思うと無性に腹が立ってきたジェリーは、「忙しい、あー忙しい」とか「べつにお世話してないですけどね」と小声で嫌みっぽく言ってみるが、桜井と名乗る人物はひるむ様子を見せず、矢継ぎ早に言葉を続ける。

「ジェリー様ぁ、誠に勝手なお願いでぇ、恐縮なのですがぁ」

 この手のセールス電話は一度捕まるとしつこく粘られるだけなのだ。早々と切ってしまおうと、ジェリーが受話器を置こうとした時、桜井の口から出たのは意外且つ切実なエスオーエスだった。 

「私たち社員をぉ、労働地獄からぁ、救っていただけませんかぁ?」 

 ジェリーが二の句を継げないでいると、いつの間にやらジェリーの肩に登っていたメロンが代わりに対応する。 

「依頼、ということですかな?」 

「ええ。助けてください! このままだと壊れてしまいます! 私も、社員も、会社も!」 

 桜井の口調からセールスの気は完全に消え、疲労と怯えが滲んでいた。

「まあまあ、落ち着きなさいな、お嬢さん」メロンが興奮気味の桜井をなだめる。 

「詳しく話してくれませんか」ジェリーが生唾を飲み込み、やっと話す。 

「どこから話していいのかわかりませんが、私の知る範囲でお話しさせていただきます。弊社は昨今の不況で業績不振が続いていました。経営の危機を感じた白岩社長は、やり手と噂のビジネスマンを招き入れました。ヘッドハンティングというやつです。男の第一印象は、爽やか、気さく、物腰柔らか、まるで英国紳士がビジネスマンを兼ねているかのようで、とても好感が持てました。女性社員の間で話題に上がらない日はなかったほどです。男は全社員集会で〈改革〉を掲げました」

 

〈当社のコアコンピタンスは、創業以来長年培ってきたノウハウとアセットといえましょう。その中には何羽もの“金の卵を産むガチョウ”がジャストアイディアのまま眠っていると考えられます。手始めにこれらをスピーディにブラッシュアップし、ニューバリューソースをプロダクト、ひいてはグローバルスタンダードに昇華していければと考えます。そのためにもまずはスケジュールにバッファを持たせるためのプライオリティ見直しと、リスクマネジメントのファクターを勘案し、ペンディングの徹底削減によるコストリダクションを試みます。そして、バズ・マーケティングとビートゥービーのパラ進行、エーエスエーピーにキャズムを解決、オポチュニティを逃さないよう市場経済におけるベストプラクティスとコンペティターのフィジビリを行っていきます。皆さん、これは非常に苦しい戦いになると予想されますが、ともに手を取り合いフルコミットしようじゃありませんかっ!〉

 

「・・・・・・といった具合です」

「す、すごい!」ジェリーが感嘆する。「まったく理解できない!」

「ええ。改革の内容を正しく理解できた社員はいなかったと思います。ですが彼の言葉の端々から感じ取れる自信と熱意に刺激を受け、一同 、高らかに拳を突き上げました。 その日から業績は確かに回復しました。しかし、しばらくの間順調に進んでいた〈改革〉でしたが、成長はあっという間に頭打ちとなり、黒字と赤字の間を低空飛行するようになりました。さらに、社員の頑張りに反比例するように労働環境は次第に悪化していきます。〈今が踏ん張り時です。羽ばたきをやめたら海に落ちてしまいますよ。私たちは運命共同体なのです〉と男は社員を煽りました。それに伴い、社風の変化に息苦しさを感じて辞めていく社員が続出して、穴埋めするために残った社員の負担が増加する、負のスパイラルが起きていたのです。目が回るほど忙しい日々が続いたそんなある日」

 桜井が言葉を句切って、小さく咳払いする。

「幹部が不正を行っているのではないか、という噂が社内に流れはじめました」

「きな臭くなってきたな」

 メロンが燃え尽きてしまったパイプの灰を掻き出しながら言う。

 桜井はふっと息を吐き出して、続ける。

「確証はないので噂止まりです。昔から勤めていた社員は、ストレスで体調を崩したり“戦略”と称して左遷されたりして、社内を俯瞰で見通せる者がいなくなってしまったため、検証の手立てがないのです。ですが、この忙しさはどう考えても異常ですし、私も直感的に病理を疑っています。そこでジェリーさんにお願いです、会社に潜り込んで不正行為を見つけ出していただけませんか? どうか、ホワイトロック商事に穏やかな日々を取り戻してください!」

「して、ヘッドハンティングされた男の名前はなんというのだ?」とメロンが言った。

「男の名前は――」と、そこで唐突に声のトーンがセールスモードに切り替わった。「ええ、私ぃ、桜井が承らせていただきましたぁ」

「あえ?」ジェリーが頓狂な声を上げる。

「お忙しいところぉ、時間をいただきありがとういたしましたぁ。失礼いたしますぅ」

 戸惑っている間に、通話が一方的に切られてしてしまった。

 ジェリーとメロンは顔を見合わせ、そろって首をかしげる。

「監視が戻ってきたのかもな。わずかな時間を使ってアプローチしてきたのだろう」

「よし、じゃあ」と、言うやいなや立ち上がったジェリーはかっさらうようにコートを羽織る。「行こう」

「行こう、って考えはあるのか? 書状のない私立探偵など門前払いに決まってる。入り込めたとしても、『探偵です』なんて名乗ったら水の泡だぞ。せっかく見せたしっぽも引っ込められてしまう」

「じゃあ、どうやって?」

「入社すればいい」メロンがあっけらかんと言う。

「おいおい、そんな都合良く求人しているわけが・・・・・・」

 メロンは自分の体より大きいタブレット端末を軽々と操作してみせた。画面にはホワイトロック商事のホームページが表示されている。

 求人項目には 、〈アットホームな職場です。一緒に夢を叶えましょう!〉 の見出しに始まり、肩を組み合っている社員、光溢れるオフィス、吹き抜けの休憩スペース、パーティーグッズのかぶり物をしているお茶目な社長が、きらきらと写真に収められている。応募要項には、〈年齢性別学歴不問、未経験者、たぬき大歓迎! 働き次第で三年目にして年収1000万円も夢ではありません。 気になった方はお気軽にお問い合わせください〉

「こういう会社はつねに人員不足だから、年中求人を出しているんだ」

「お前、詳しいんだな。さすが天才!」

「まあな」

「よーし、久々に履歴書かいちゃうぞぉ」

 フンフンと鼻歌まで歌っているジェリーの頭上には、煩悩が吹き出しになって浮かんでいる。

「お前、やけに乗り気だな」

「だって聞いたか? 〈数々の難事件を解決してきた名探偵のジェリーさんだけが私の希望なんですぅ〉だってよぉ。桜井さんの声、可愛かったなぁ。ぐへへ」

「そんなこと言ってたか?」

「なにより」ニヤリと笑って、人差し指を立てるジェリー。「事件が解決すれば報酬が入るだろうし、だめでも、会社から給料が入ってくるだろう。なんせ、就職するんだからな。一挙両得よ。ぐへっへっへ」

「不安だなぁ」

「だいじょぶ、だいじょぶ。前は公務員をしていたんだ。事務仕事は心得ているさ」

「そういう意味じゃなくて」メロンは言葉を飲み込んで眉間を押さえる。

 欲に目がくらんだジェリーにはなにを言っても無駄なのだ。証明写真も撮り直さなきゃ、と言いながらシャツを着替えているジェリーを見て、メロンは本日二度目のお手上げポーズをする。

 

 結果として、求人広告の謳い文句に偽りはなかった。まるで我が家のように寝泊まりをしている。社員一同の夢は帰宅となった。この調子で順調に仕事量が増えていけば三年後の年収は提示額に達するだろう。ただし一日が39時間になる計算だが。

 世の中うまい話などないのだ。

 まるで刑務所だった。社員は退職のことを「出所」、外回りに出たまま消息を絶つことを「脱獄」と陰で呼んでいる。否、現代の刑務所は人権が保障されているだけまだマシだった。社員は営業成績という数字でラベリングされ、名前や個性を剥奪される。社の色に染まらない者は鞭打たれ、深い傷を負う。古代の奴隷だ。 

 歴史の長いホワイトロック商事でありながら、定年退職していく社員は少なかった。会社は平均年齢が低い理由を「若く柔軟なエネルギーに満ちている」と好ましい表現でメディアにアピールしているが、実際は劣悪な労働環境によって数年で体や精神を病んで辞めざるを得なくなってしまうのである。

 このように、社員に度を超えた長時間労働や過剰ノルマを与えることで心身ともに消耗させ、次々と離職に追い込む企業を、俗に「ブラック企業」と呼ぶのである。

 

 キーボードを叩くカタカタ音と書類を捲るシュルシュル音だけが悲しく響くホワイトロック商事のオフィス。

 ブルーライトの亡霊と化したジェリーの横で、消しゴムを枕に眠っていたメロンがむくりと起き上がる。

「おい」とメロンは声を掛けるが、ジェリーは何事かぶつぶつ呟きながらディスプレイに見入っている。反応はない。

 メロンの嫌な予感は的中し、ジェリーはみごと会社に取り込まれてしまった。依頼人の桜井にはいまだ接触できず、詳しい情報が得られていない。任務遂行も絶望的と思われた。

「このままではジェリーの体がもたんぞ。まずいな。非常に、まずいな」

 メロンはあくびをかみ殺して立ち上がった。首の骨を鳴らし、短い手足で屈伸を始める。体を温めなければカメレオンは動けないのだ。

「やれやれ」と言いながらメロンは準備運動を終えると、シャツの襟を立て、目玉をぐるりと一回転させた。「一肌脱ぐとするか」

 

 

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